人は、時々自分を浄化させねばならないと、そう感じる時があるものだ。私などは殆ど毎日のようにそう感じている。 真の安らぎを得たいと願う時などに、自我を奮い立たせて自分の安らぎを妨げる何かの困難に立ち向かうのではなく、自分の魂を浄化させて、永遠な何かに自己を投影し、穏やかに心身を任せたいとそう願う時があるものだ。 それは一時的な現実逃避ではなく、神社の木立の中で深淵な静寂を味わうのにも似て、魂を浄化させる事で邪気を祓って、真の力を得る為の一種の神事のようでもあり、また、ギリシャ的なイデアの世界に浸る事で、この世的な問題がいかに自分の理想からかけ離れた不完全なものであり、それに関ることがいかに自分の人生にとって、無意味な事であると悟る事にも似ている。 私はそんな時、いつも音楽に頼る。それは耽美的なクラシック音楽でなければならず、それも限られた作曲家のものでなければならない。 例えばモーツァルトなら、全作品の2楽章全てがそれに答えてくれる。また、ベートーヴェンのそれも相応しい。しかし意外にも現代の作品にそれを見出す事が多い。例えば、シェーンベルクの若い頃の作品、まだロマン派時代の残滓が色濃く匂う「浄められた夜」などがそれだ。 この作品は、砂漠で夜空を見上げるような、そりゃもう美しい作品である。音楽理論には疎い私だから専門的な事は判らないが、要はロマン派まではあった調性が崩れていく過渡的な時代で、だからか不安なカオスの足場の中でイデアの世界を探そうとする、人間の悲しいまでの性のようなものを感じてしまう、類まれな耽美的傑作である。 この作品では、演奏する者も聴く者も、ひたすら自分を浄化された何者かへ変えたいと願いつつ、作品に解け入る。もう恍惚としてその流れに身を任すと、ありとあらゆる憂いから解放されるのだ。 私はこの作品を数種類の演奏で持っているが、 1番 カラヤン指揮ベルリン・フィル 2番 ブーレーズ指揮ニューヨーク・フィル 3番 ホーレンシュタイン指揮バーデン・バーデン南西放送管弦楽団 の順位でお勧めしたい。 カラヤン盤はオケの圧倒的な技術とカラヤンの濃厚なロマンチシズムと完璧主義により、古今無双の名盤となっている。
家一軒あるいは土地を査定するには、プロの目と知識、それに大変な経験が必要となります。都市計画法から建築基準法は元より道路法など様々な法令が絡み、果たして売れるか売れないか、それから始めなければなりません。明らかに法的瑕疵がある場合もあり、また、土砂災害警戒区域にでも指定されていたり、崖防止条例などに抵触していたら、もはや処分すら出来ません。そしてそれを査定・評価するには最低でも宅建士、建築士、出来れば公認不動産コンサルティングマスター位の資格者が現地に行かなければ、査定のサの字も出来ないのは、プロなら誰でもわかった事。
査定が3秒とか60秒で出来るなど、こんなアンチョコな謳い文句でネットで注目を集めようとするのは、それだけで公正取引委員会からお呼び出しがくるような、誇大広告です。
取り合えず希望者を集めてツバを付けておこうとする下心によるものです。そして一旦客の名が判ったら、それを他業者に情報を売ったり、自社で改めて価格訂正をして販売に繋げようとする魂胆が見え見えです。
その広告主に、真面な不動産査定をしようとする気があるのか、良心を疑いたくなりますね。秒単位で査定が出来る、そんな広告にはご用心ご用心。昔、不動産業者は千三つと言われた時代がありましたが、このIT時代になってから、またしてもそういう悪しき時代復古到来かと、私は少し恐れています。
宅地建物取引業法における建物状況調査について
平成28年6月に宅地建物取引業法の一部を改正する法律(平成28年法律第56号)が、平成29年3月28日には宅地建物取引業法施行規則の一部を改正する省令(平成29年国土交通省令第13号)並びに平成29年国土交通省告示第244号及び平成29年国土交通省告示第245号がそれぞれ公布され、平成30年4月1日より、既存住宅状況調査技術者が既存住宅状況調査方法基準に従って行う既存住宅状況調査の結果が、既存住宅の取引における重要事項説明の対象となります。
既存住宅売買瑕疵保険における現場検査の省略について
既存住宅状況調査の結果、必要な部位が調査され、劣化事象等がないなど一定の条件を満たす場合には、既存住宅売買瑕疵保険(個人間売買タイプ 検査事業者コース)における住宅瑕疵担保責任保険法人の現場検査を省略することができます。これにより、既存住宅状況調査を活用した既存住宅売買瑕疵保険への加入を促進していきたいと考えております。
上記は国土交通省からの抜粋ですが、弊社では相談役がその準備を終えております。
最近またぞろ、秋の夜長に熱燗を呑みながとか、湯舟やらで唸る歌が欲しくなってきた。とは言っても、演歌やらポップ調の曲などではない。私はそれらの歌詞を見ただけで白けて気が引けてしまう。
粋なところがなくて、恥ずかしいのだ。21世紀の今日、互いの気持ちを確かめ合うのはメールやらラインの類による送受信であり、そんな連中に粋な文句など望むべくもないだろう。 かと言ってメロディーが特に良いわけでもない。どっかで聴いたメロディーの断片を都合よく並べたような曲ばかりで、これにも箸が向かない。
今の上手い歌手はといえば、青筋立てて大声で喚いて、キーだけは合っているが、美声ではないから聴く気にもなれない。まだ、それなら良い方で、マイクで微声を拾ってもらわねば、聴きとる事も出来ないような、貧弱な声の主まで歌手でございと嘯いている。
私はそんな中、上手い下手よりも自分か酌相手にしか唄わない、あの粋な端唄をまたぞろ再開した。昔、端唄を習っていたのは三十三歳ノ頃で、中学・高校の同級生が師匠となって教えてくれた微妙な節回しを、思い出しながら稽古している。
当時習い始めたのは、日本人の大人としての嗜みが自分にも必要になるだろうと思ったからであり、決して、グラマーであった同級生の浴衣姿に見惚れてではない。
端唄といえば、「春雨」「鬢ほつ」なとが有名である。なんと言ってもその歌詞が素晴らしく粋である。
「春雨」
春雨に しっぽり濡るる鶯の 羽風に匂う 梅が香や
花に戯れ しおらしや
小鳥でさえも 一と筋に
寝ぐら定めぬ 気は一つ
わたしゃ鶯 主は梅
やがて身まま気ままになるならば サァ
鶯宿梅じゃないかいな サァーサ なんでもよいわいな
「鬢ほつ」
鬢のほつれは 枕のとがよ それをお前に疑られ
つとめじゃえ 苦界じゃ 許しゃんせ
待てば添われる 身を持ちながら せいて世間を狭くする
せかなきゃね 先(せん)越す 人がある
疑い晴れたら この手を離せ 他所で浮気をするじゃなし
車もね 来ている 夜も更ける
この二つの唄は、遊女と馴染みの唄で、恋しても添われない身を持て余す唄である。女も男も「愛してる」「恋してる」とかを言わないところが良い。いつの頃からか、日本も直接言葉で感情を表さねばならない時代とななったが、あれはアメリカ映画やらドラマの影響によるものだろう。日本人がそれをするようになってから、底の浅い文化となったような気がする。歌の文句もキリスト教的アガペーを語らなければならない訳で、その時点で、日本人の「粋」の文化はなくなるのだ。
昔の恋などというもは、たぶん、生々しい情交への欲求から始まるもので、それが売り買いのつく遊女相手でも最後に誠が通えば本物なのである。日本人はそれを承知だから愛だの恋だのとは言わず、とくに嫉妬の思いやらで、恋心の機微を表していたのである。それが「粋」というものであろう。
そういう、好いた惚れたからは縁遠くなった私ではあるが、こんな「歌」ではなく「唄」を誰に聴かせる訳でもなく、それとなく一節だけでも玄人はだしで唄いたいというのが、今の私の高望みである。