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秋の夜長に

 最近またぞろ、秋の夜長に熱燗を呑みながとか、湯舟やらで唸る歌が欲しくなってきた。とは言っても、演歌やらポップ調の曲などではない。私はそれらの歌詞を見ただけで白けて気が引けてしまう。

 粋なところがなくて、恥ずかしいのだ。21世紀の今日、互いの気持ちを確かめ合うのはメールやらラインの類による送受信であり、そんな連中に粋な文句など望むべくもないだろう。  かと言ってメロディーが特に良いわけでもない。どっかで聴いたメロディーの断片を都合よく並べたような曲ばかりで、これにも箸が向かない。

今の上手い歌手はといえば、青筋立てて大声で喚いて、キーだけは合っているが、美声ではないから聴く気にもなれない。まだ、それなら良い方で、マイクで微声を拾ってもらわねば、聴きとる事も出来ないような、貧弱な声の主まで歌手でございと嘯いている。

私はそんな中、上手い下手よりも自分か酌相手にしか唄わない、あの粋な端唄をまたぞろ再開した。昔、端唄を習っていたのは三十三歳ノ頃で、中学・高校の同級生が師匠となって教えてくれた微妙な節回しを、思い出しながら稽古している。

当時習い始めたのは、日本人の大人としての嗜みが自分にも必要になるだろうと思ったからであり、決して、グラマーであった同級生の浴衣姿に見惚れてではない。

端唄といえば、「春雨」「鬢ほつ」なとが有名である。なんと言ってもその歌詞が素晴らしく粋である。

「春雨」

春雨に しっぽり濡るる鶯の  羽風に匂う  梅が香や

花に戯れ しおらしや

小鳥でさえも 一と筋に

寝ぐら定めぬ 気は一つ

わたしゃ鶯 主は梅

やがて身まま気ままになるならば  サァ 

鶯宿梅じゃないかいな  サァーサ なんでもよいわいな

 

「鬢ほつ」

鬢のほつれは 枕のとがよ それをお前に疑られ

つとめじゃえ 苦界じゃ 許しゃんせ

待てば添われる 身を持ちながら せいて世間を狭くする

せかなきゃね 先(せん)越す 人がある

疑い晴れたら この手を離せ 他所で浮気をするじゃなし

車もね 来ている 夜も更ける

 

この二つの唄は、遊女と馴染みの唄で、恋しても添われない身を持て余す唄である。女も男も「愛してる」「恋してる」とかを言わないところが良い。いつの頃からか、日本も直接言葉で感情を表さねばならない時代とななったが、あれはアメリカ映画やらドラマの影響によるものだろう。日本人がそれをするようになってから、底の浅い文化となったような気がする。歌の文句もキリスト教的アガペーを語らなければならない訳で、その時点で、日本人の「粋」の文化はなくなるのだ。

昔の恋などというもは、たぶん、生々しい情交への欲求から始まるもので、それが売り買いのつく遊女相手でも最後に誠が通えば本物なのである。日本人はそれを承知だから愛だの恋だのとは言わず、とくに嫉妬の思いやらで、恋心の機微を表していたのである。それが「粋」というものであろう。

そういう、好いた惚れたからは縁遠くなった私ではあるが、こんな「歌」ではなく「唄」を誰に聴かせる訳でもなく、それとなく一節だけでも玄人はだしで唄いたいというのが、今の私の高望みである。

投稿日:2017/11/12   投稿者:小林 孝之 68歳