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チベット問題とオリンピック
失笑を買うかもしれないが、私はあの北朝鮮の拉致問題以後、一切キムチは食べていない。単に拉致問題に憤慨しての、稚拙な感情によるものではない。あの横田さんご家族の気持ちを思えば、私もどこかで常にあの問題を意識していたいという、私なりの正義感と同胞意識からである。
だから、今回のチベット弾圧についても、その抗議として私は一切オリンピックを見ないと決めている。また、家族に対してもそのように宣言もした。ただし、私は偏屈者ではないし狭量な心の持ち主でもないと、自分自身はそう思っている。馬鹿と言われようと、どこかで自分なりの筋目を通したいのだ。そして何よりも、この情けない日本人の節操のなさに、せめて自分だけでもという、少し気負った思いからである。
考えてもみるがよい。チベットという仏教国の窮地に対して、キリスト教国であるフランス、イギリスでさえあのように抗議しているのに、仏教国であるわが国の首相は、見てみぬふりをしている。私自身は仏教信者ではないが、あまりに情けないではないか。
以前にも書いたが、中国に日本企業が進出するのは良いが、必ず中国はそれらを一種の人質にして、企業の利益を優先せざるを得ない状況に追いやり、日本企業の政治への影響力を見越して、日本の政治を間接的に支配する。だから今回も言えないのだ。元々、人治国家であり独裁専横国家でしかない中国とかロシアに進出する企業は、それなりの覚悟をしてもらわねばならない。ある日突然、会社やら工場がその国の人民の所有になりかねない。
近年の中国を見るにつけ、明治維新に日本政府が速やかに欧米に俊英を送り込んで、その法体系を謙虚に学ばせた事にくらべ、なんと身勝手で狭量な国であろうと思う。結局は法治国家ではなく単なる専横的な共産党独裁国家なのである。
さて問題は、中国がチベット侵略を正当化すればするほど、かの国はその世界的地位を落とし、加えて、今から63年前まで、中国を侵略していた日本の立場を有利にするというその逆効果について、かの国が意識していないという点である。以前の日本を批判しつつ、自分らは性懲りもなくこの現代でも同様のことを行っているのだから、常に我々に対し反省を強いてきた中国に、我々は悪しき先例を作った先達として、中国に物申すべきである。
結局、今回の紛争での中国の姿は、衣の下に鎧を隠していたという程度ではなく、この現代において、カツラの下に弁髪を隠し、ズボンの下に尻尾を隠していたという、文化そのものの低俗さを露呈したようなものである。
しかし、私はそのような中国に対しても同情を禁じえない。私が小学4年生の年に東京オリンピックが開催されたが、その時、毎日親父から聞かされていたあの戦争に負けた事実に、子供心にも負い目を感じていた私にとって、アジアで初めて開催されたオリンピックが、なんとも誇らしかった事を思い出す。それを同じアジア人として中国人にも味わってもらいたいという気持ちはある。ただし、その資格があるのかどうかは、彼らが帝国主義と覇権主義を捨てない限り、資格なしと断じたい。
「平和の祭典」が、毎回オリンピックを賛美する美辞となる。世界中から集まった選手によってフェアな戦いを通して競いあうオリンピックが、世界で今も続く醜く悲惨な紛争を一時的にも忘れさせる催しであるのなら、その開催国である中国がオリンピックをなんとか成功裏に終了させるために、侵略併合したチベットで、100人単位の流血を既に起こしたという事実は、やはりこの世には一時的にも平和はない事を、あらためて世界中に知らしめる事になった。
このような中国に対し、戦前戦時中の、つまり60年以上前の日本の行為に対し、極めて中国寄りの発言を行う一部の左翼メディアは、今回のチベット問題を殊更には採り上げない。彼らの異常は、文化大革命やら大躍進時代の中国の自国民に対する蛮行とかも、特に特集を組むこともなく沈黙を保ってきた。厳密に言えば、矛先を丸めて痛いところを痛くないように突っついていた。
私の心配は、中国が何をしたか、あるいはするかではなく、そのような中国に対し、一部のメディアとか現政府らが、きちんと抗議もせず看過したあげく、戦前の軍部に対するように中国に対しても、同様の無作為の過ちを犯すことである。 |
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