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私にとってのアンタッチャブル音楽、グールドの「ゴールドベルク変奏曲」
社格というものがあります。神社の格式の順位の事です。神宮を筆頭に、別格官幣大社ほか大社、中社、小社というように、歴史上での謂われやら、祭られている御神体などによるもので格付けされ、例えば伊勢神宮、明治神宮、熱田神宮、あるいは我が地の出雲大社やら熊野大社などが有名なところです。
さて、私が何を謂わんとしているか、そうです、私が聴く音楽にも私が決めている格付けがあるのです。つまり、この作曲家が作った作品には、私ごときの軽薄浅学の凡夫がもし批評などすれば、耳が破れ目がつぶれるというほどの作曲家から、いくらなんでもこれは駄作だというような作品を、たまには作ってしまう作曲家まで、いろいろいるわけです。
例えば、私は音楽に詳しいとか自称する人が、私の耳元で「ベートーヴェンのトリプルコンチェルトは名作だ」などと言ったら、私は間違いなくその人を四の字固めをした後でバックドロップをお見舞いし、今後の憂いを断つことにします。私はその昔、カラヤン指揮のベルリンフィル+リヒテルのピアノ+オイストラフのヴァイオリン+ロストローヴィッツのチェロのレコードを、その表紙の四人の豪華な顔ぶれに釣られ、作品を知らないままついつい買ってしまい、挙句が針を落として20分で、あまりの駄作さに呆れてしまい、その場でレコードを粉砕してしまった経験の持ち主です。また逆に、「ゴールドベルクは、なんかつまんないな〜」とかでも言おうものなら、日御碕灯台下の断崖から蹴落として、「一年間素潜りでもしてろい」と啖呵を切る事でしょう。この作品は私にとっては特別な作品なのです。器楽曲の金字塔とも言うべき作品です。いや厳密に言うならば、本来のチェンバロなどではなく、グールドがピアノで弾いた「ゴールドベルク変奏曲」ならばとします。
その演奏は喩えて謂うなら、エジプト時代の絵文字であったり、フェニキア時代の碑文のようなもので、人類がその後の人類の為に残した普遍の遺産、あるいは歴史的事実のようなもので、解釈は許すが一切の批評は許さないといった類の作品です。
曲は最初と最後にアリアをもち、その間に30曲の変奏曲を挿みます。リズム、テンポ、などの変化は当然ですが長短ともの調子もあり、短調は三曲だけあとは全て長調です。バッハの信仰は極めて根源的かつ本質的であり、故にバッハは長調の作曲家かもしれません。それぞれが小品ながら一曲一曲が楽しめます。
ただし、グールドの1981年の2回目の録音を聴かなければ、まったく意味がありません。1955年のものも比べると未熟です。2回目の録音は、修行僧が無限の修行の内にたどり着いて、山の頂で開眼し悟ったような演奏で、それこそ完全無欠のバッハです。
私は特にピアノ作品をよく聴きますが、そんな私もたとえ作品がドビュッシーとかショパンのものであっても、それらとは桁外れの内容であるとして、別格として扱うのがこの作品と、モーツァルトの一連の作品です。両者は、旧約聖書と新約聖書のような類のものです。それらがなければ、その後はなにもなかっただろうという意味です。
尚、ジャズの好きな人なら、キース・ジャレットのケルンコンサートにはその影響が最も顕著に現れているとも書き加えておきます。
「新日本紀行」のテーマ曲が、私の許可も得ずに勝手に・・・・・
私は、今迄の日本の番組で一番好きなものを一つ挙げよ、と言われたならば、即座にNHKの「新日本紀行」を挙げるでしょう。私にとってNHKは、あの新日本紀行を作ったNHKであり、紅白歌合戦なんぞという馬鹿馬鹿しいお祭り番組やら、朝の連続ドラマを作ったNHKではないのです。とにかく、新日本紀行には戦後の日本人の生活の総てが描かれているのです。この20年間で日本はその美徳の殆どを失ったと思っている私にとっては、それはまるで、日本民族の回想録を見るようなもので、そのテーマ曲(作曲・富田勲)はさしずめ日本のレクィエムのようなものです。
最近、日本で200万部も売れた藤原正弘 著 「国家の品格」に書かれている日本人の美徳が、総て描かれているのです。正直、勤勉、自然への畏敬、高度な美意識、などか゛日本の山河と海、あるいは田畑、あるいは下町の商店などを舞台に描かれています。出てくる人物達は市井の人々であり、寡黙でぶっきら棒ですが、自分等の生き方には自信ありげです。
そんな「新日本紀行」のテーマ曲が私は好きです。とにかく、日本人としての民族性をこれほど感じさせる曲は他にありません。
たとえば、雅楽をやられてもそこには仏教の無常観はありません。また、民謡を聴いてもそれはあくまでも時代が違う御百姓であったり、木こりであったりで、決して現代の日本を感じさせるものではありません。ましてや、江戸時代の長唄などには、時代と民族を超える普遍性は全く皆無です。
しかし、あの「新日本紀行」のテーマ曲には、戦後の日本の隅々にまだあった、日本人の誇りとかといった大仰なものではない、慎み深く今日を生きたらまた同じような明日が迎えられるという、そんな日本人の日常に対する肯定的な気分が満ち溢れています。そう、あの番組とテーマ曲には、慎みと日常と肯定がキーワードなのです。
たった2分程度の曲ですが、私にとっては至宝のようなものです。しかし、しかしです、最近になってこともあろうに「新日本紀行ふたたび」などという、「新日本紀行」の当時の皆さんと町並みは今はどのように変わったかという、そんなお馬鹿な番組をNHKが始めたのです。しかも、テーマ曲に女の声で歌まで挿入したのだから堪りません。
これをもし富田勲が許可したならば、彼は血迷ったのです。もし、それがNHKの提案ならば、担当者は私の痴情派デジタルの電磁波攻撃を受けねばなりません。
馬鹿をおしではないかえな、NHKのトンチンカン。しっかりと我々日本人の原風景ともなったあの番組を、三十年後に作り変えるという破滅的な過ちを犯して、なおかつ聴視料を請求されても私は堪りません。それに、あの女の唄はなんだろう・・・・・・・・、まるで呪詛でもしているかのような貧弱で陰な声で、歌詞もろくに判らない様な歌い方。
音楽に歌詞がつけば、その音楽の意味するものは極端に限定されてしまうのです。我々は、あの番組と共にあったから、それで完結していたのです。一体あの上に何を加えようとしたのか、意味不明です。
皆さんがお聴きになるなら、大友直人指揮の東京交響楽団のものが良いでしょう。同じような雰囲気で「日本の素顔」のテーマ曲と繋がって、それは素晴らしいのです。
ディーリアスを聴こう・・・・・・「春初めてのカッコウを聞いて」他の管弦楽曲集
日本人が意外に聴かないのがイギリスの作品です。知られているのは、「威風堂々」のエルガー、「惑星」のホルスト程度でしょうか。「メサイア」のヘンデルをイギリス人にしてしまうと、歴史上でのクラシック界の大家が一人はいる事になりますが、ちょっとこれには問題があります。世渡り上手なヘンデルが、イギリスに帰化しただけですから、生粋のイギリスの風土でそだった訳ではありません。 ところで、例えばこのエルガーなどにも大変な名作があって、弦楽セレナーデなどはチャイコフスキー、ドボルザークのそれらと比較しても決して遜色のないものですが、エルガーに限らずイギリスの作曲家は音楽史上で画期的な作品、つまりその後の音楽に特に影響を及ぼしたような作品がないので、日本では知られていないのです。 実は、これから述べるディーリアスなどはその最たる人で、全作品に刺激的な部分は一切なく、聴いていてここの部分がその後の世界の音楽を変えた、などという部分も見当たりません。どちらかといえば、ヨーロッパの紀行番組のBGMに使われそうな音楽、印象派の風景画を思わせるような作品が多く、音の構成は印象派で、しかも描写的という作品ばかりです。 代表作は「春初めてのカッコウを聞いて」など管弦楽曲がありますが、実はどれもが風景画のような作品で、全てがみずみずしく、精気に満ちています。人々の喧騒も聞こえますが、総じて作者の孤独が全編に渡り漂っているように聞こえるのは私だけでしょうか・・・・・・・・・・・・・・。 それは、オーケストレーションが余りに透明だからそのように感じるかもしれませんが、宗教による死生観にはない、ある種の無宗教者による諦観に満ちた目で、だからこそこの世の全ての事象を、逆に肯定的に見ているようなそんな音楽のような気がします。ディーリアスの音楽は、それが表現する空間と時間を、清涼な空気として吸い込むように聴くことが出来れば、充分に楽しめる筈です。 演奏者は、バルビローリ指揮のものか、アンドリュー・デイビス指揮のものが良いでしょう。サー・ビーチャム指揮のものも名盤らしいのですが、録音が古いという先入観があって、私は透明感がある前者二人のものしか聴きません。
マーラーを楽しもう・・・交響曲第九番
芸術家にはライフワークとか人生を賭けたテーマというものがあります。いや、厳密に言えば、それがない人もいるので、そういう人もいるという言い方にします。一番顕著な作曲家では、バッハがいますが、この人は見るからに神に帰依しているという感じですし、まだ宗教裁判もあったバロック時代ですから、このように宗教音楽を徹底的に極めるというのも判ります。またバッハには世俗的な作品も多いのですが、よくよく聴いてみますと、これも神の掌で遊ぶ人間の賛歌に聴こえますから、もう神様一点張りと言っても過言ではありません。当時の作曲家などは、音階の規則性について知り,その調和に宇宙の謎解きのヒントまで隠されている事に恐れをなして、ひたすらこの世の創造主である神の御業を讃えるという気持ちになったのではないかと、そうも私は考えます。そんな意味でもバッハの音楽などは、神への供物であると言っても差しつかえありません。平均率クラヴィエールなど はまさにそのような作品です。この作品を僕自身はあまり好きではありませんが・・・・・・・・・ ところが、神の呪縛からかなり開放された19世紀末くらいになると、様相は一変し、あまり手放しの神様賛歌はなくなります。逆に神を単純に信じられなくなったからこそ、顕著に死への恐怖とか人生への諦観に溢れた作品が多くなってきました。まさに神による規範を無くし、己の足場を失った近代的自我の哀れにして美しい人生の顛末がそこには感じられます。 その代表格がこのマーラーです。 死がある故に人生への諦観に溢れ、死への恐怖に慄き、そして疑念を持ちつつも神が存在している事を希うという、いつもその辺を逡巡しながら一連の作品を作り上げていきました。神という太陽の周りを廻る衛星のようなものです。いつかはその引力で引きつけら完全に溶け込むようにも見えましたが、最後にはその引力から逃れるようにその軌道周回をやめ、吸い込まれるように永遠の暗闇の方に向かって飛んでいったような、そんな作曲家であったように私には思えます。 さて、マーラーの一連の作品を聴くには、どうしても飛ばしてはならない順序があります。まず始めに、第一番「巨人」から聴くことです。この作品の一楽章こそは、全ての作品への第一歩と言っても差しつかえはないでしよう。 暗闇の森を一人の若人が歩みはじめす。すると森の鳥はそれを励ますかのように、日の出前に歌いだします。しだいに森はざわめきだし、東の空から日の出が始まり、ホルンの音と共に若人の歩みは大きくなります。そして最後には若人は走り出すのです。 若人の旅立ちは、永遠の問いに答えをだす旅立ちであり、果てしないものですが、当初は誰もが青春に感じる極めて健康的で楽観的なものでもあります。その顛末はというより作曲家の心の変遷は、一連の作品に深い傷のような蹉跌となって残っていきます。神を信じきったかと思うと、今度は東洋の持つ諦観による悟りの境地を願ったり、果てはマリア崇拝のようになったり、いつも心は安静を求めますが、かなえられません。その始まりが交響曲1番なのです。そして、未完に終わった10番アダージョと同じように諦観の悟りがあるのがこの交響曲9番です。この作品でも、ところどころに1番の旋律が出てきますが、打ち消されます。老成した大作曲家にして大指揮者グスタフ・マーラーのたどり着いた境地とは・・・・・・、それは皆さんが聴いて感じ取ってください。マーラーは4楽章が美しい事も付け加えておきます。 尚、参考としてというよりは、私の独断と偏見によるものですが、マーラーの作品を聴く前に、ヘルマン・ヘッセの「漂白の魂・クヌルプ」をお読みになる事をお薦めします。これこそは、マーラーの交響曲1番のような作品です。 9番の演奏としては、いろいろ名盤がありますが、私の一押しは、バルビローリ指揮ベルリンフィル盤です。とにかく、4楽章の美しさは法悦を感じさせるものです。重厚無比、精緻の極みといった演奏です。バルビローリとしては、ブラームスの交響曲全集、ディーリアスの録音と並ぶ名盤中の名盤です。
ショパンを楽しもう・・・スケルツォ2番編
前回はエチュードでしたが、今回はスケルツォという事で・・・・・・・なんていうと、まるで私が評論家みたいですが、さにあらず。とにかく高校時代、学校でも家でも高校の勉強は一切せず、ただひたすらレコード鑑賞と読書だけをしてきましたから、こんな事を書いてるのです。私の知人というよりは痴人のような人が、あれはどっかからのパクリだなんて事を言っているようですが、全くの誤解です。常に独善的且つ自己満足的な評論でしかありません、念のため・・・・・・・・・・。 さて、ショパンのスケルツォの場合、レコードでも演奏会でも、いつもセットとなるのがバラードです。バラードについてはその語彙は皆さんが想像される通りですが、スケルツォというのは、いろいろな訳し方があるようで、大体が「諧謔」というところです。諧謔といえば、戯れの冗談で、しかも刹那的って感じですが、なぜこんな言い方をショパンがしたのかは判りませんが、その曲がもつ余りに極端な気分の移ろいによるものからかもしれません。 私が最初にスケルツォを聴いたのは、たまたまたレコード店にあったCBSソニーのフィリップ・アントルモンのレコード表紙が、余りにも私好みだったかでしかありません。いかにもバラード・・・・ショパン・・・・・・って感じだったのです。勿論、スケルツォなど聴いた事はなく、ホロヴィッツのバラード一番に感動した私が、そんじゃバラードの残りの三曲もみんな聴きたいと思った、そなん時にジャケットが素晴らしかったアントルモンのレコードを買って、スケルツォを知ったというのが事実です。結果、実に演奏はつまらないものでしたが、バラードの一番と三番それにスケメツォの二番は作品として強烈に印象にのこりました。それから、ショパンの作品は全作買い求め、それこそ何度も何度も針を落として聴きましたが、趣味ではないポロネーズとか前奏曲などはさて置き、やはりその中でも、作品と演奏者の理想的な組み合わせが出来てきたのです。 例えば、マルタ・アルゲリッチの舟歌とソナタの三番、これはピアノで歌うとは、まさにこのように演奏するという見本のようなもので、激しいロマンチシズムを持つ女性の、メンスの匂いまでするような濃厚無比な語り口です。ワイセンベルクとポリーニのコンチェルト一番、これらも絶品。片やワイセンベク独特の硬質感のある音が曲に透明感をもたらし、まるでノクターンのような演奏です。また、ポリーニは知的な節度があって、しかも充分に歌う演奏です。驚くことにこれはショパンコンクールの後にすぐに録音されたものです。天才の証のような演奏です。そして、バラードとスケルツォ、特にスケルツォの二番の本当の正体、言うなれば完璧な解釈を示したのがあるのです。それが今回の、ベネジェッティ・ミケランジェリのものです。バラードの一番は、それまでホロビッツの歴史的演奏「ホロビッツ・オン・テレビジョン」のものが最高だと信じていた私が、いとも簡単に持論をひっくり返した、それほどのものです。細部まで完全に意味付けされて、どの音にも無駄は一切ありませんという、そんな演奏ですが、それより凄いのが、スケルッツォの二番です。 これは、曲の持つ目まぐるしいほどの動機の変化に対し、独自の解釈が的確に加えられています。特に、ワルツの部分が、ため息が漏れるほど洒落ているのです。完璧な技巧をもつミケランジェリが、とにかくたどたどしく演奏するのです。それは恥じらいにもとれるような、躓きのような演奏です。あたかも、社交界の舞踏会に出た生娘が、ワルツを踊りながら、自分のドレスの裾を誤って踏むような、そんなうぶさがあり、その後に続く踊り相手によってクルクルと振り回されるような、目の醒めるようなメロディとの、絶妙な対比が堪らないのです。勿論、この部分に限らず、曲の中にちりばめられたメロディーは、どれも印象深く甘く、ショパンならではものですが、このミケランジェリの演奏を聴くと、ここまで作者であるショパンは意図していたのかと、私はいつもこの演奏を聴く度に、自問します。そんな演奏なんです、この演奏は。しかし、これが19世紀のパリで作曲された事を考えると、当時、社交界の寵児であった彼ならばと考える私の推理は、あながち間違いでもないかもしれません・・・・・・・・・・・・・・・ ショパンは甘さとそのお洒落れさを味わえないと、作品はまったくつまらないものにしかなりません。天才の作品には、常にお洒落さがあるものなんです。人生と同じです。人生は辛いものですが、どんなに生真面目に頑なに生きていても、刹那の煌めきの中に見る希望と永遠、ウィット、お洒落さ・・・・・・・・、それがなければ生きていけないのです。私は、辛い事があったり気が滅入ると、ついついオーデコロンを我が中年の身に振ります。それは誰かを意識したものではなく、それこそショパンを聴いたときのような気分になりたいからなんです・・・・・・・・解るかな・・・・・・・。是非、一度聴いて見てください。 次回はスカルラッテイかマーラーの作品を取り上げます。
ショパンを楽しもう・・・エチュード編
私がショパンを聴き始めたのは、やっぱり多感な青春時代、高校1年の頃でした。クラシックに今ほどの興味も無かった頃でしたが、ソニークラブという通信販売でソニーのクラシック全集を買ったのが始まりでした。その頃の友人に、あまり訳もわからずブルーノ・ワルターのモーツァルトを聴いては、「う〜んここがいいんだよ」などとのたまったり、流行のインスタントコーヒーを飲みながら、知識人ぶって朝日ジャーナルからの受け売りでごたくを並べる友人がいました。なーるほど、などと相槌を打ちながら、私も負けじと小遣いをはたいて買い入れた、それがクラシックの始まりだったのです。 その中に入っていたのが、前世紀的ショパン演奏家だったブライロフスキーのショパン作品でした。協奏曲は一番、後はポロネーズ・マズルカ・ワルツなどの中からポピュラーなものばかりで、全部で大小20曲くらいの曲目が収録されていました。先ほども書いたように、演奏者がロシア革命時の亡命者だったこともあり、19世紀的といいましょうかサロン的雰囲気の演奏でした。しかし、まだうぶなビキナーとしては、作品自体が初耳のものばかりで、とにかくこんなにも甘く切なく情熱的なものが、世の中にはあるものだと、随分と感銘を受けました。それから沢山のショパンの作品と、数十名の演奏家に、レコードの中ではありますが、出会いました。 そのショパンの作品で、勿論、そのどれもが素晴らしいのですが、中でもこれぞ天才の証といわれるものがあります。それが24曲のエチュード、つまり練習曲です。 これらは演奏時間二分から一分くらいの小品ばかりですが、それぞれが特徴的な奏法を必要とする作品で、その奏法の練習のためというより、その限られた形式と奏法という条件の中で、それらにもっとも相応しく独創的な作品となっています。 幼稚な感情はいりません。煌めくばかりの音のシャワーを浴びて、それを堪能すれば良いのです。もうそれだけで満足という、なんか特殊効果の中に入ったような感覚になります。こういう作品を、妙に感情を込めて演奏しますと、その芸術性の殆どは失われてしまいます。曲の中には「エオリアンハープ」とか「黒鍵」とか様々な名前がついていますが、そんな先入観を与えるような名称にこだわってもなりません。 とにかく、純音楽として聴く事をお薦めします。 しかし、音楽は楽譜に描かれている限りは完全無欠なもの、つまりプラトン流に言えばイデアの世界ですが、実際に演奏されたものでしか、我々には聴くことは出来ません。ですから、当然、不完全なものになってしまいます。かといって、自分でろくに楽譜も読めず、演奏も出来ないわれわれにとっては、演奏者が誰かによってその作品の価値は決定的となり、結局は自分にとっての最高の演奏者が出来上がり、それがほぼ完全な演奏という事になります。 ところで、ショパンはポーランド生まれでパリ育ちだから、ポーランド人がいいとかフランスの演奏家が良いなどと思われると、大きな間違いです。ショパンの演奏はモーツァルト同様、膨大な演奏記録があり、既に限界的な解釈と演奏に行き着いています。もう、妙に感傷的なものとか、やたらドラマチックなものにでは、少し耳の肥えた人には胡散臭い演奏に思えてきます。 私の場合、ショパンの諸作品の演奏では、個々にこの曲には誰々の演奏と決めております。正直な話、最近の演奏家では誰にも興味を引きませんし、特別面白い演奏にも出会った事がありません。 ショパンの練習曲の場合は、全曲総じて決定的な演奏録音をした者がいます。 その名は、マウリッツィオ・ポリーニ。 多分、現在は60歳くらいですから、彼が30歳頃の演奏です。とにかく、全ての音に一切の曇りがなく、完璧な間隔で音が連なり、強弱のバランスもまさに理想的で、しかも全ての音が櫛引いたように混ざっていません。技巧的にも困難な曲なのに、楽譜というそれだけでは常に抽象的かつ完璧であるその音符のつらなりが、紙面から垂直に浮き出て音になりましたというような、まさにイデアの世界の音楽となっています。なんというかバランスのとれた構築美のようなものすら感じます。 さて、この練習曲は12曲づつが一つの作品として二つあり、作品10と作品25がそれです。厳密に言えば後三つありますが、一般的にはこの二つが有名です。ただ、ここで問題なのは、この作品がショパンの二十歳前後に作られたという、その驚愕すべき事実です。最初にこれを聞いたのが18歳前後ですから、その時の驚きは例えようがありません。天才とは二十歳で美の化身となるのです。いったい全体、人間の人生にはこうも違いがあるのかと、私が驚愕したのは、そのことです。ショパンではいつもそれを感じさせられます。 最後になりましたが、マウリッツィオ・ポリーニがああも完璧な演奏をするのには、イタリアという国柄もあります。というよりは、一世代先輩にとんでもない完璧主義者がいるのです。20世紀最高のピアニストの一人、ベネジェッティ・ミケランジェリその人です。次回はこの人の演奏によるスケルツッオ2番の話になります。
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